『無題』

簡単な事だ。

髪の毛を黒く染めるだけで、この国の人間になれる。
 
ジロジロと見られる事もなく、眉を顰められる事もなく、話が出来る。
買い物一つするにも楽になった。
 
木の実を煎じたものを髪に塗るだけだ。
こんな簡単な事で、こんなに楽になるとは思わなかった。

自分を捨てた。
何の為に生きて来たのか。
何の為に、誰の為に斬って生き延びたのか。

心地好い音を立てて流れていく川面に、黒い髪の自分が映る。

石を放つと、嫌な顔が乱れて沈む。
そして暫く経つと、また現れる。

消えない、自分。

赤い髪をした、若い頃の自分は、いつもそれが悲しかった。
黒い髪をした、今の自分は、再び浮かび上がる己の姿を哀れんでいる。

消せない、自分。

まだ生きている事を、あの男が知ったら笑うだろうか。
赤い髪を恐れなかった、あの男に憎まれ口を叩かれても不思議と胎の内が穏やかだった。

振り返ると、そこにあの頃の自分が居る。
自分を捨てても、忘れることは出来ない。

赤い髪の自分には名前が無かった。

そんな自分を捨てて、居心地好くなった今の自分にも、
やはりまだ、名前は無い。